神社の移り変わり
 

木 田 神 社
  当社は、社伝によりますと、平安時代の貞観13年(一説に12 年)(871年)奈良興福寺領、木田荘(山奥・木田・花堂・板垣・下馬) の総社的存在として、御神託によって時の越前国主(一説に光厳天皇の御宇元弘元〜3年1331〜1333年)、尾張国(愛知県)、津島神社(津島祇園社・旧国幣小社)より勧請したのがその創祀といわれています。保元二年(1157年) には、越前国内の区徒を鏡圧した押領使、林光明が崇敬し、社殿を寄進しました。しかし、天正10年(1582年)八月、火災に焼失し、社殿等は烏有に帰しましたが、やがて人々の悲願により慶長7年(1602年)3月、ようやく造営が果たされました。その後も社殿の大破はありましたが、江戸時代の享保12年(1727年)9月に見事に再建されて、昭和23年6月の福井大震災によって、本殿を除く他の建造物が大破するまで人々の参拝が絶えませんでした。中世以降、神仏習合による崇敬を受け、大陸神である牛頭天王(ごずてんのう)を奉祭する疫病退散の祈祷所でもあったようですが、明治の神仏分離によって「木田天王宮」を「氷川神社」 に改称し、明治十年三月、「木田神社」という現在の社号となって、須佐之男之命等を主祭神とする旧郷社(明治8年12月)としての社格を得ました。震災後も、いちはやく氏子崇敬者によって復興奉賛会が結成され同29年には再建し、竣工祭が斎行されました。当社は古くから木田地区の産土神として庶民の篤い信仰を受けておりますので、春秋例祭の際には、橋南第一の縁日として多数の露店が並び、子どもからお年寄りまで、参詣の人々で賑わいをみせ、昔も今も“橋南っ子″の風物詩、楽しみの一つとなっております。
 例祭日には、出店の他に昭和31年に建てられ、平成6年に新社務所とともに改築された氏子会館で、旅芸能が披露され橋南で最も庶民的で活気ある社として、今日に知られるようにもなりました。社伝によると、養老年間(717〜723年)、越前国に下向した紀伊国(和歌山県)の武将湯浅氏が、木田郷山奥(現山奥町)に草庵を結び、本国より持ち来った家宝の猿田彦大神の面、獅子頭を石の唐植に納め山際に埋めたのを、後に木田天王宮に奉安せよという霊夢を見、これによって当社に奉納したといいます。これ以後祭礼には「里帰り」と称して、まず湯浅家に御渡りがあることになっています。また埋蔵の伝承地も現存しており、その由緒の豊かさを物語っております。現祭神は、天照皇太神の御弟神、建速須佐之男尊で、他に、稲田姫命を主祭神とし、聖武天皇の皇子で、木田村赤坂(現福井市月見町)に病弱の為、ご療養になりこの地で亡くなられ、小祠に祭られていたと伝える泉丸皇子を合祀しています。
また、合祀によって稲荷大神・恵毘須大神という皇に家内安全・商売繁昌を司る神様も奉祀しております。
 境内神社の晴明神社は、平安時代の陰陽家で著名な安倍晴明(981〜1051年)を祭神とし、特に火伏せ神として信仰を衆めています。木田神社を中心とする木田門前町は、福井屈指の旧家・町居・老舗が並び、中世より朝倉氏をはじめ歴代国主と深い関係をもった橘屋や、堀秀政の菩提寺である長慶寺など、史跡・名刹にも恵まれており、今日、歴史文化地域として注目されています。

晴明神社について

(1)神紋
晴明さんのご神紋どこかでご覧になった事はございませんか。旧日本陸軍の軍帽の紋章です。
外国でも使われています。昭和の始め頃までは子供の着物の紐の根着につけられ、
又幔幕の縄を通すちちにもつけられました。厄除開運の紋として、幸運を願ってつけられました。
「晴明桔梗」と言います。晴明公の秘められた独特の陰陽道に用いられる前祷免符の1つです。
天地五行と形どり宇宙万物の厄災清浄をあらわしています。ギリシャ語でペンタグラマンと
称して外国でも魔除けの印としています。

(2)晴明様と我が町(西木田2丁目)←(氷川町)←(東町)との関係
960年(天徳4年) 晴明公(40才)の頃、北陸道を巡遊されました。
木田荘 天王社前で日がとっぷり暮れました。木田四ッ辻にたたずみ、適当な宿舎を探すがみつからず
大変お困りになりました。民家に一宿を乞われました。
古老の言い伝えによれば、現在の北陸銀行木田支店の南西角に当たると聞き及んでいます。老婆は心良くおもてなしをしてお泊りいただきました。翌朝御出立に際し、わしは清明と云う者だ 宿泊のお礼に火伏の呪法を
厳修されて行かれました。私共は1000年来その神のごかごをこうむっています。近くに明治33年
橋南大火、羽入火事、昭和20年の空襲(長慶寺釣鐘楼前直径30cm位の焼夷弾、重ねて1個、町内西端
にのこし焼夷弾1個町内周囲は火の海)にあるにも難をまぬがれています。晴明公の御加護の
ご偉大さに町内一同感激している次第でございます。
大正末期京都上京区堀川町ご本社から御分霊をお迎えして木田の清明神社とし昭和30年9月26日
当所にご神殿を造営して祠り日夜尊崇ご信拝申し上げている次第でございます。
早朝ご参拝も多くご神威の高きことが伺われます。

(3)安部の晴明公とはどんな方でしょう

921年(延善21年)生れ 960年天徳4年 40才北陸ご巡遊 1005年(寛治2年)9月26日85才で亡くなられた。
平安時代の陰陽天文博士 延善21年香川県讃岐国春之東郡井原の庄人として生れられた。
孝元天皇の皇太子大彦命の御後胤で父は大膳太夫 ご幼少の頃より御賢明な方にて万の道に秀でられ
始め陰陽師加茂忠行その子保憲について天文の擱くが奥義を窮められ、特に天文暦学に通達せされ、神道自在
の妙技を得られました。長するに及び天文陰陽博士として神の如き両得の人でありました。朱雀帝より
村上、冷泉、円融、花山、一条、六代の帝の側近に仕えられ数々の功績を立てられた。中でも村上帝の御代
進んで入唐し、城刑山に白道仙人の神仏を承り帰朝するやいなや 我が独特の陰陽道を確立させ
朝廷の祭政・民族生活の規範を定められた今日我々が基準とする年中行事「暦術占法」等皆この時創案
されたものであります。移りゆく曇雨を見て空中の変事を予知し、建国の吉凶を判断された、その功績により従四位下
に叙せられた。寛和元年六月花山天皇 位をひかれら夜 潜りに宮を出てこの夜の暑さを庭にさけ仰いで天象異変の
あるを見、驚き朝廷に赴くに王座空しかりと云う。長徳中術士あり 左大臣藤原道長に告げて曰く「某日家当にあり」
朝に及んで道長門を閉ず。鎮守将軍源頼光、医師丹波忠明 僧正観修及び晴明を抜く たまたま大和瓜を献ず道長
疑いて食わず、晴明云わく「瓜中に毒あり」と云う その瓜 踏々円転して止まず 忠明針を持って刺す瓜動かず
頼光 刀を抜いて割る 中に小蛇あり針その目を刺し刀頭を断つと云う
又、天徳中節 刀災にかかる人の制を知るものなし 詔して晴明の本像を作って献じた。晴明の居所 土御門の北
西洞院の東 御所の北西にあたり(鬼門)御所を今もお守り申し上げています。
本社 京都上京区堀川一条上る晴明町
愛宕郡に墓あり 福井県遠敷郡中名田 社荘(泰山君府の墓)中国の神様
名田庄村 奥名田終 晴明公と関係あり
当社略暦
1.大正末期 御分霊を迎う
2.昭和30年9月26日夜御分霊遷座式(25日)
大祭    ○御神殿造営
       ○鳥居建設
        ○木下信氏 神殿幔幕奉納
        ○酒井幸太郎先生提灯一対奉納
昭和42年 ○内田太郎吉氏神殿屋根銅板葺き替え
昭和58年 ○木下敬三氏幔幕寄進
町内はもちろんのこと他町の方々のご信仰篤く威大な御神威に感激しています
晴明公のご加護あらんことを深い信心の誠をつくしたいと思います。
                             昭和58年5月24日 山田記す
追記昭和45年9月  島田勝海氏   由緒板奉納
  昭和58年5月  〃       由緒板を改修  



この文章は昭和58年5月に山田氏が書かれたものを写しました。

 



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